乾山セミナー (2013.08.26 Mon.)

24日(土)25日(日)と乾山縁の法蔵禅寺で行われた第9回乾山セミナーへ。縁あって昨年より伺うようになった。

初日は、影山純夫先生(神戸大学名誉教授)による「新古今の世界と乾山」そして中ノ堂一信先生(京都造形芸術大学大学院客員教授)による「欧米における乾山焼」。二日目は竹芸家の池田瓢阿氏による「乾山と竹の茶道具」、お昼をはさんで、茶杓作りを体験。

「新古今の世界と乾山」では元禄4年に出版された「鴫の羽掻」(シギノハネカキ)の存在を始めて知る。「六歌仙」「八景和歌」等、三十余の歌集から、五九六首の〈数〉に関わる和歌を蒐集。時代の好みを映す書で当時大量に出回っており、乾山も持っていたはず、という書物(絵入り)だそうだ。現在復刻版が販売されているほどの書物ながら今まで一度も耳にしたことも眼にしたこともなかった。そしてやはり「鴫の羽掻」が乾山に与えた影響は大きかったに相違なく、もう一度この書物を評価し直したい、というのが影山先生の結論であった。

「欧米における乾山焼」では「初期の欧米での乾山焼コレクションの実態と特徴」を「大英博物館フランクス・コレクション」及び「ボストン美術館モース・コレクション」から考察する、というものだった。イギリスの外交官、アーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow)、そして観古図説を著した蜷川式胤(ニナガワノリタネ)というキーマンの存在。時代によっての評価の違い。その裏側に隠れた作為、というようなものも資料からは伺える。

「乾山と竹の茶道具」では、竹と日本人と茶の湯、乾山と竹の道具、という観点からの考察。竹で編まれたもの、というのは比較的新しく古いものは木のへぎで編まれている。日本には竹簡がなく木簡のみ。なぜか。太い竹がなかったから。もともと竹は唐様として栽培されていた。つまり一般的な植物ではなかったということ。竹の国になったのは室町時代。孟宗竹にいたっては江戸の中頃になってから。薩摩が琉球に移植し、次に薩摩へ、そして江戸の薩摩藩邸から江戸の村および全国へ広まっていった、等々。また神事に使われる竹のお話しなど民族学の立場からのアプローチもあり、たいへん面白かった。乾山作の竹の茶道具を、煎茶そして茶の湯、その両方をされる池田先生から見ると、お茶道具であって煎茶道具としては使えない、そうだ。乾山作の籠の絵。一見ちゃんと描かれているように見えるけれど、構造がわかってない人の描き方。つまり乾山は籠は編めなかったと思われる。つまり乾山の手元にあった籠は「乾山作」ではなくて「乾山所持」。唐物と和物の違い、対比。くずれたものは飽きない。それを発見したのは茶人。特に利休。竹は真の先。どんな身分の高い人でも竹の道具でもてなすことができる。その根底には竹は依代として使われ始めた、というところに回帰する、という結論に納得。

続いて、実習「茶杓を削る」!三種類の竹。おおよその大きさにカットされあらかじめ撓めは作られている(さすがにワークショップでしかも初心にはこれは無理ですからねぇ)。ランダムに配られ手元にやってきたのは白竹(真竹)の逆樋(さかひ)。まずは竹と会話をする。次にどんな形にするかイメージする。次に実際に寸法を測って、樋を中心に左右5ミリから6ミリずつとったところに記しをつける。裏にはだいたいのプロポーションを描く。そしていよいよ削っていく。教えていただいたように小刀を持って、竹は机に固定。カーブしている部分は櫂先に向かって小刀を動かす。胴体部分は切止に向かって小刀を動かし幅を整える。幅が決まったら裏側も削る。かまぼこ型になるように。節裏の処理が固くて大変。途中で何度か先生にマジックをかけていただく(笑)最後に櫂先。おおよその形は先生が鋏で切って出してくださる。これまた難所。最後にサンドペーパーを裏側にかけ、小刀の背、丸みがついている角で全体をこすってツヤを出す。最後に全体を先生がチェックしてくださり、切止を入れて完成。ふぅ。大変でした!先生のマジックがなければ出来なかった!!しかし、とても勉強になりました。20名相手のワークショップながら先生の懇切丁寧なご指導、そしてお人柄に心を打たれました。この不器用な私が、もう一度やってみてもいいかも、と思うほど(笑)

資料代わりに配られたのは「はじめてつくる茶杓共筒」(指導池田瓢阿/淡交社)茶杓作りに挑戦してみたい方はぜひお手元に。とてもわかりやすく解説されています。