あとがきにかえてコボレバナシ (2012.10.28 Sun.)

京都のIl Canto del Maggioのシェフが10年を過ごしたトスカーナの 「5月の歌」。京都で食べるお料理とちょっとベクトルが違うと感じた。数日前にIl Canto del Maggioへ食事に。修業先のお店に伺ったことなどご報告。そして現在はシェフが代替わりをしていることを知る。なるほどそうか。やはりそうだったか。もちろん似たところもあってとても美味しいお料理だったのだけれど、もう少しシンプルでオーソドックスなものをイメージしていたので「おや」と少なからず思った次第。伝統と革新、受け継ぐものと自分らしさ。これは東西を問わず分野を問わずモノづくりを継承して行く人たちが多いに悩むところだろうと思う。難しいテーマで答えはすぐに見つからないけれど、変わらぬ良さ、変えない良さ、が存在するのも確かで、受け手側の勝手な思いを言わせてもらえば「変わって残念」ということの方が圧倒的に多い気がする。

アンジェロシェフ一家との昼食。そこでの話題。背景や理由をより深く理解するのに役立ったのが、イタリア語の先生の著書。『イタリア人と日本人、どっちがバカ?』(ファブリツィオ・グラッセッリ)深刻なテーマが軽妙なタッチで書かれ、問題もよくわかる。確かに思わずにやにやしたり笑ってしまったり、そうそうあるある!と膝を打ったり。しかし、問題は根深く暗い。そして日本もまさに同じような問題を、ことの大小はあれど抱えていて、イタリアとニッポン、この大好きな二つの国の行く末が本当に心配になる。出口はあるのか!?と。

心配と言えば、今年の旅では強く感じたイタリア料理の変化。以前は何を食べてもどこで食べても、ほぼ美味しかったのに。ぶらっと入って「うん、おいしいね!」ということも多かったのに。特にPaviaではただ単に美味しくない、ということではなく、これは何料理!?というものが出てきてびっくりした。昔からやっている見かけはごく普通のオステリアなのに。そしてその料理をイタリア人と思われる人たちが美味しいと言って食べていることにさらに驚いた。ミラノに近く移民が急激に増えていることも変化の一因かも知れないけれど、イタリア人自身の味覚の変化あるいは鈍化もあるのだろうか。帰国してからもつらつらとそんなことを考えていたら興味深い本の書評が目に飛び込んできた。本のタイトルは『日本農業への正しい絶望法』(神門義久著)、評者は中島隆信氏(経済学者 慶応大教授)。それによると著者が、日本農業がダメになった原因のひとつに「消費者の味覚の鈍化」を挙げているそうだ。むむむ、やはり。「土地作りを怠った農作物は食味を悪化させるが、食生活の乱れから舌の劣化した日本の消費者にはその判別がつかない。品質が見分けられなければ良品の供給者が消えていくのは世の常である。」(以上讀売新聞10月28日付“本よみうり堂”より抜粋)と。イタリアにも同じようなことが起っているのだろうか。ニッポンとイタリア、ますます心配になる。

まずは問題を正しく知って、知るということはときに辛い行為でありまた難しいことでもあるけれど、何ができるかを一人一人が自分の頭で考えることだろうか。そして何より大切なのは食問題、農業問題に関わらず、子供たちへの教育だろう。しかし、教育を与える大人がこの体たらくだからねぇ。いつの世も悪いヤツ、自分さえよければ、自分さえ儲かれば、という品性が下劣な人はいて、そう言う人たちがいなくなることはないと思うけれど、パーセンテージを少なくしなくちゃいけない。自分の中にもそういう部分はあってそれもまた無くすことは出来ないと思うけれど、少なくすることはできると思う。やはり地獄極楽の絵を、子供のときから見なくちゃ(見せなくちゃ)ダメかも

とにもかくにも楽しいだけではなく、色んなことをいつも以上に考えた旅だった。今年の旅で得た問いやテーマを生活の中で折りに触れ考えて行こうと思う。

+おしまい+

あっ、ひとつ大事なこと!アンジェロシェフのお家を訪ねた翌日がご近所の教会のフェスタで、ブローニの教会からマリア様が運ばれてくることになっていた。なんとマリア様はヘリコプターでお出ましになるとか!一日ずれていればヘリコプターで降臨するマリア様を見ることができたのに。ざんねん!