京三条せともの屋町 (2012.07.21 Sat)

茶道資料館(裏千家センター内)で開催中の夏季特別展京三条せともの屋町平尾政幸氏による講演会もお聞きする。三条通に面した町家(商家)跡から多量の陶器類が出土しているそうで、今までに確認された場所は、中之町弁慶石町下白村町福長町油屋町、そして有来新兵衛屋敷跡の6ヶ所。

江戸時代初期の地図『都記』『京都図屏風』には「せと物や町」の表記がみえ、『洛中洛外図屏風』(富山 勝興寺本/福岡市本)に三条の焼物屋が描かれている。勝興寺本に描かれている焼物屋は寺町三条の角。

前記6ヶ所の内、一番調査が進んでいるのは中之町。ここからの出土品の8割を美濃が占め、後の2割は唐津高取。美濃は土岐市の元屋敷窯妻木御殿窯。で、この美濃唐津と現在呼ばれている唐津風の焼物を産した妻木御殿窯では唐津型の大型の窯があった可能性があり(美濃焼の製品にはトチンやヨリヒモなど窯道具が付着したものもあり、窯の様子を窺い知ることができる)、その理由を平尾氏は以下のように推理していた。

波多氏の滅亡後唐津を治めていたのは尾張出身の寺沢広高。妻は美濃国土岐郡妻木城主妻木貞徳の娘でそのため唐津の技法などが妻木御殿窯に渡った。

ふむ、なるほど。しかしそうすると唐津のライバルになる訳で、その辺りはどう考えればいいのでしょう?

以下、その他の覚書。
古田織部屋敷跡(現在の堀川高校敷地内)から出た物は三条の焼物屋跡地と思われる場所で出土したものに比べてそれほどへうげていない。では誰がそのフォルムをエスカレートさせたのか?(京都市考古資料館で12月2日まで展示中)
●京都市の出土品の多くを占めるのは土師器。これはどの場所からも出土する。そのため土師器を比べることにより出土品の年代も特定できる。
●三条のせともの屋が消えてしまった理由は?

それにしても出土品は地下1mから出土したとのこと。掘ってみたーい!!それから前を通る度に渋いなぁと思っていた京都市考古資料館。2012年12月2日まで開催中の「ひょうげた器 三条せともの屋 出土茶陶」(無料)は必見。常設展もなかなか面白く、いい意味で意外でした(笑)