「世界が見惚れた京都のやきもの~明治の神業」展では幹山伝七の洋食器にも目を奪われた。幹山伝七、1821(文政4)~1890(明治23)、は“彦根落で湖東焼を手掛けた後、1862年に京都東山に移って作陶を行い、「松雲亭」や「加藤山」の名で活動した。京都で最も早く磁器を専業とし、西洋顔料を取り入れ、大規模な工場を構えた。1872年、京都博覧会の出品作が明治天皇の買上となり、翌年宮内省から洋食器の制作を依頼された。1887年に幹山陶器株式会社を設立した。1878年、パリ万国博覧会で銀障を受賞するなど内外の博覧会でも活躍した。”そうだ。
写真上は宮内省から依頼された「染付四季草花文洋食大皿 明治12年 磁器 関和男蔵」
写真下は「金彩色絵草花文皿 明治6年 磁器 関和男蔵」1873(明治6)年に手がけた洋食器75種の内の一枚。これは海外資客の迎査施設であった「延遼館*」に備え付けのものだったそうだ。この洋食器セットはまとまって現存していないため、全貌はいまだ明らかではない、とのこと。“器形は洋風だが、日本画に描かれるような伝統的な日本の草花文を、洋食器の形状に違和感なく調和させている。”との説明通りたいへん魅力的。
*延遼館:東京都中央区の浜離宮の北門にあった館。 1869(明治2)年、浜御殿石室(木造洋風建築)を、外国からの賓客を接待するために改修したもの。さらに詳しくはこちらで。